先日、
深江文化村の方からメールをいただきました。
大正末期に建てられた、今も残る文化村の近代建築2棟のうちの1つ、
「古澤家住宅の目の前に、6階建てのマンションが計画されている」という内容でした。
当時、日本とロシアの架け橋であった
歴史的・文化的な遺産の周辺環境が、
こころない開発のもとに侵害されようとしているのに対し、
隣家住人の方々もひどく心を傷めておられるようす。
なんとか、すこしでも長く大きく昔ながらの深江文化村の姿を
とどめてもらいたいものです。
「深江文化村を大切に思ってくださる方々、お一人でも多くの方々にこの現状を知っていただきたい」とのことでしたので、『阪神間モダニズム 近代建築さんぽ』で紹介しきれなかった古澤家住宅の取材記事を交え、本書籍掲載内容の文化村についての内容を以下に紹介したいと思います。
○ 古澤家住宅建築概要
設計者……L.N.ラジンスキー
構造……木造2階建て
敷地面積……平米
延床面積……200平米
竣工……大正14年
文化財指定……国登録有形文化財
○ 富永家住宅建築概要
設計者……L.R.ベイリー
構造……木造2階建て
敷地面積……平米
延床面積……平米
建築面積……25坪
竣工……大正14年(1925)
文化財指定……国登録有形文化財
深江文化村(2011年取材・執筆内容から)
阪神芦屋駅を降り、深江文化村を目指す。
かつて3000坪近い敷地に400坪ほどの芝生の中庭を造り、その周りに十三棟の洋館が立ち並んでいたという。今では「富永家住宅」と「古澤家住宅」の二棟が残る。芦屋文化村とも呼ばれた。
芦屋駅から芦屋川の川沿い西側を南に下っていく。川原をのんびり歩くのが心地よいかもしれない。途中、500メートルほど下ったところに、大正時代に建てられた旧安部邸、現在サンアール不動産芦屋寮の建物が見られる。設計者の松井貫太郎は日本工業倶楽部会館などを手がけた著名建築家。天然スレート葺きの屋根から突き出したドーマーと2本の煙突が印象的で、アシンメトリックな構造や石張りの外壁などにも重厚感が感じられる。残念ながら、塀の外から窺う程度にしか見られないが、川沿いの信号を目印に、西側に回ればなんとかお目にかかれる。
旧安倍邸から南西、直線距離にして200メートルほどのところに深江文化村はある。道路は路地風で多少入り組んでいる。文化村の北角にたつ案内板によると「大正から昭和かけて、この辺り一帯には、ピアニストのアレクサンダー・ルーチン、指揮者のジョセフ・ラスカやエマヌエル・メッテルら、ロシア革命(1917年)の亡命者たちが居住していた。彼らを慕って多くの門下生が集まり、音楽を通した交流からは、朝比奈隆、服部良一、貴志康一、大澤壽人ら多くの日本人音楽家が生まれた。この地域が深江文化村と呼ばれる由縁である。・・・・ヴオーリズの弟子で、建築家の吉村清太郎によってデザインされた。・・・」とある。
当時神戸には亡命者がたくさん滞在していた。音楽家だけでなく、服地や製菓、料理の能力を生かして神戸に定着した人々も少なくない。かのトルストイの娘、アレクサンドラもアメリカへの亡命前の半年を芦屋の海岸地帯で過ごしたという。
古澤家住宅の前に立つ。複雑に組み合わされた急勾配のスレート屋根、これでもかというほどに壁に切られた大小の窓数。ロシア人建築家の設計によるものだが、内部には和室も設けられているという。急勾配の切妻屋根などはロシア的な発想なのかもしれない。私邸なので、もちろん、外から眺めるだけ。
富永家住宅は、木造ツーバイフォーによる寄せ棟2階建て。深いみどり色と軒下や窓枠の白とのコントラストが美しい。建築主の富永初造氏は鈴木商店(現在の神戸製鋼・帝人・サッポロビールなどがその流れをくんでいる)の木材関係の海外勤務員で、この住宅の資材や家具一式を米国から搬入したという。良質な資材が、くたびれることなく維持されている。